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2009.06.10 (Wed)

私の子どもに対する言葉。

その人にとっては、「例え」の一つ、なのだろう。

でも。
私としては、不快で堪らない。
削除してしまえるものならば、削除してしまいたいコメントの一つ。

該当コメント:

(一部引用)「悪人がこの世からいなくなればいい」という真っ当な考えを「存在を抹消する」という意味が含まれるから使うなというのは、言葉狩りの類でしょう。子どもが気の毒です。
(stachyoseさんの2009.05.10(日) 21:59のコメント より)



これには、「私が「例え話」は不得手である」という、最近気が付いた思考傾向にも起因しているのかもしれない。

(内容としては「ブログ雑感 2」カテゴリーと思うが、話の流れ上「ブログ雑感 1」カテゴリーにしておく。)

【More・・・】

~~~
先に出したコメントは、

アカリさんは、自分のお子さんが「悪人がこの世から絶滅すればいいのに」といったら、「絶滅なんていったらいけません!」と叱るんですか?
(stachyoseさんの 2009.05.08(金) 20:21のコメント より)

から始まる。

私は、このコメントを読んだときめまいがした。

どうして、私の子どものことを書く?
どうして、例え話に「子ども」を出す必要がある?

もしも私が「是」と答えたなら、「アカリだけでなく、(そのように育てられた)子どもも変だ」という話になる、と思った。

ブログで意見表明のできない子どもを例に出すのは不当だと思った。

~~~~

でも。
あくまで話の流れであり、stachyoseさんは私の子どもを悪くいうつもりはないに違いない。
そう思って、質問に答えようとした。

でも、此処で私の「例え話が不得手である」というのが出てしまった。

日常場面で、自分の子どもが「悪人がこの世から絶滅すればいいのに」という場面を想像したのだけど、それもできなかった。

子ども番組で、「悪を倒す正義の味方」というのは、よくある。
でもそれは「悪」という行為に対してのものである。
(中には主人公側と対立はするものの、「悪」でもないというキャラもいる。)

誰かの存在そのものを抹消する気にはなれません。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が好きですし、そうありたいと思います。
難しいですが・・・・。

と、コメント欄に書いたが、私は自分の子どもにも「罪を憎んで人を憎まず」であって欲しいと思っている。

又。
ゴキブリなどの生物には「絶滅」という言い方はするかもしれない、と思ったものの、「人」に向かって「絶滅」というのは言葉的におかしいだろうという感覚もぬぐえなかった。
前記事にも書いたが、「絶滅」に、「習慣」に対するという意味合いがあるとはしらなかった。)

・・・・だから、「回答不能」になってしまった。

「例えられたもの」が理解できない以上、「回答不能」というのが私のもつ最上の答えだった。
(今から思えば、「例え」が理解できないから別の言葉で説明して欲しい、といえばよかったのかもしれない。
でも、当時は、stachyoseさんは私への「説明」に対しては積極的になれないと表明しており、別の言葉での説明を頼めないのではないか、と思いこんでしまった。
それは私の側の不手際であったのだけど。)


~~~~~

私には、未だに謎がある。
「悪人がこの世からいなくなればいい」というのは、『真っ当な考え』なのだろうか?

この場合の「悪人」の定義が、広がってしまっては収拾がつかなくなるので、考察は又別の機会にするとして・・・・「人」が「いなくなればいい」、というのは『罪を憎んで人を憎まず』の精神とは矛盾していないか、と思うからだ。

以上、余談。

~~~~~

私は、子どもを育てている。
だから、子どもも私の考え方の影響を受ける。

だが。
私の考えが間違っているとして。
私の子どもを知らない(もし百歩譲って会ったことがあるとしても、「アカリの子ども」だとは分からないであろう。)第三者であるstachyoseさんに、「子どもが気の毒」とまで言われるのは非常に心外である。

子どもの周囲にいるのは、私だけではない。
旦那、(子どもにとっての)祖父祖母、親族、友人、保育園・幼稚園や学校の先生、子どもの友達、近所の方々、保育サポートに来てくださる方々など地域の方々・・・・等々、いろいろな人の影響を受けながら、子どもは育っている。
私だけの影響しかない訳ではない。
当然だ。
子どもは、地域の中で育つものなのだから。

だから。
「気の毒」という感想は、(本来話に出てくる必要のなかった)子どもに対する侮辱ではないかと思う。

~~~~~
本来話に関係ない、私の子どもに対するものについて。

私は不快に思うし、削除できるものなら削除したくて堪らないのは事実である。

でも、削除はしない。
私の子どもを侮辱するつもりがあったかどうかは分からない(私はそのつもりはないと思っている)から、stachyoseさんに対して何かを求めるつもりはない。

ただ、不快に思うということだけ、書くことにする。
他者の言葉に対しては無力な私の、せめてもの意思表示として。
EDIT  |  18:13  |  ブログ雑感 1  |  TB(0)  |  CM(5)  |  Top↑

Comment

人が悪事をはたらくか否かは、その行為者自身の自覚や責任感に多くの由来があると思うが、その人に影響を与えた環境にも、少なからず原因があると思います。

悪事を悪事として認識できない。言い方を変えれば悪いと思っていても「このくらいは良いだろう」とやってしまう基準を決めるのは、本人の能力とは別に、過去から現在に至るまでに、その基準を植え込んだ、周りの人にもある意味で責任がある。

そう考えると、悪を撲滅するには、悪事をはたらく人間だけを責めてもはじまらないのではないかという気がします。
angrer_j |  2009.06.10(水) 19:47 |  URL |  【コメント編集】

子供が、「悪人がこの世から絶滅すればいいのに」といったら、「絶滅なんていったらいけません!」と叱る。

といった話ではなくて、

「絶滅なんていったらいけません!」といった発言をする前に、「どうして悪人がこの世に存在するのか」を考えさせる助言が必要になってくると思う。

ある行為を、子供に言えるかどうかを考えるてみるのは、その行為や発言の倫理性を確かめるために使う手法であると思うので、それを考えるのは妥当であると思います。
しかしあくまでもそれは手法であって、悪い方向に進んでしまうような発言を子供がもし言われたら、その子供が不幸であるとまで書いてしまうのは、確かめる手法の域を脱して、その考えを批判する行為になってしまうと思います。
angrer_j |  2009.06.10(水) 20:19 |  URL |  【コメント編集】

♪angrer_j さんへ。

コメントありがとうございます。

>人が悪事をはたらくか否かは、その行為者自身の自覚や責任感に多くの由来があると思うが、その人に影響を与えた環境にも、少なからず原因があると思います。

これは、私もそう思うのです。
「本人」「環境」(環境=物的・人的・社会的・制度的なもの全て)の各要素が相互に作用しあう部分もあります。

もっとも。
私は「悪」とは何か、というところで立ち止まってはいますので、考えがなかなか纏まらずにいますが・・・・。

>「絶滅なんていったらいけません!」といった発言をする前に、「どうして悪人がこの世に存在するのか」を考えさせる助言が必要になってくると思う。

あ、そうです。
私はそれ以前の段階で思考停止してしまったのですが(苦笑)。
現実として、子どもの言葉に対して「叱る」より先に「どうしてその発言をするか聞く」等が先と思うので、「叱る/叱らない」の2つでの選択というのにもなじめずにはいます・・・・。

>ある行為を、子供に言えるかどうかを考えるてみるのは、その行為や発言の倫理性を確かめるために使う手法であると思うので、それを考えるのは妥当であると思います。

そうですか。
私、どうにも「例え話」が不得手で・・・・似た「例え」が幾つかあった後でしたので、拒否反応を示した部分はあります。
そう考えると、失礼なことはしてしまっていますね。
ありがとうございます。
アカリ |  2009.06.12(金) 02:02 |  URL |  【コメント編集】

「職業に貴賤なし」と言いますが、「貴」と「賤」の境界は何処かにあるだろうと思います。
自分が大事に考えている人が、ある職業に従事している場合、他の職業に移るべきだと考えてしまう私にとって、また自分自身の職業について考える場合においても、この境界をどのように解釈すれば良いのかを、考えてしまいます。

私の場合、ひとつの基準になるのが、「子供に言えるか」になるかと思う。

合法的に物を売る商売の場合、その商品に対する利益率があまりにも膨大で、いわば人をだまして商売をしてしまうような職業もあれば、薄利多売で、他人のためになるような商売もある。

両者とも合法であるのだから、「貴賤」という意味で、確かにこれはナシであると思う。
しかし、その商売で胸をはれるかどうかは別のところにあると思います。

「子供に言えるかどうか」は、判断がつかない、いわば究極の選択の場合に使うのが理想だと思います。

我々にとって、「子供」とはそういった位置にあるものなのだろうと思います。

そのような意味で、この例え話は有効になるのであり、安易に持ち出してもらいたくない種類の例え話だと考えます。

アカリさんのこの記事の拘りを読んで、違った方向から「子供」をみることができたので、感謝しています。
その拘りは、私として賛成いたします。
angrer_j |  2009.06.12(金) 08:47 |  URL |  【コメント編集】

♪返事になっているかどうかは分かりませんが。

思うことを徒然と。

>ある行為を、子供に言えるかどうかを考えるてみるのは、その行為や発言の倫理性を確かめるために使う手法であると思うので

>「子供に言えるかどうか」は、判断がつかない、いわば究極の選択の場合に使うのが理想だと思います。

この2つの文章、angrer_j さんが意図しているのは同じ事だと思うのです。
「合法的」とかいう次元ではなく、自分の内なる良心に照らし合わせて、それでも自信をもって「こうである」と言えるかどうか・・・・それが「子どもに言えるか否か」という言葉になるのだと思います。
あくまで、「自分の内なる良心」の具現化が「子ども」である、といった感じと捉えています。

「~~したい」「~~できる」「~~しなければならない」・・・・いろいろなしがらみがあって。
でも、自分が「こうありたい」と信じるもの、とはずれていく事って往々にしてあります。
その時に自分の軸となるものとして、自分のもつ道徳心というか、良心というか、そういうものがあると思います。
「お天道様が見ている」といった発想と、似ているのかな・・・・。

~~~~~
本件に話を戻すと。
stachyoseさんが言っていたことは、要は、「まっとうな思想」を、「言葉」の問題・表現の問題に貶めて批判してはいけない、ということなのかなと思うのですが。
・・・・それでも、私は「言葉」の問題故に「思想」が伝わらない、というのが問題だと思うし、だから拘っていました。
又、「行為」ではなく「人」の否定になってしまっている、というのが「罪を憎んで人を憎まず」という「まっとうな思想」とは違うのでは、とも思うのです。

~~~~~
>この記事の拘り

そうですか・・・・私としてはごく当然の「拘り」だったのですが。

子どもが成長していく様を横で見ていると、いろいろあると思っています。

勿論、子どもに伝えるためにも、「私」という軸はしっかりもっていたいし、私が「信じるもの」でないと子どもには伝えられないとは思います。
(余談ですが、「言っていること」と「していること」とでは、「していること」の方が伝わるのですよね・・・・身を正す必要は感じます。)
ただ、自然科学的なもの・・・・例えば、1+1=2であるとかいった、「正解のあるもの」とは別の、「価値基準」や「良心」といった、「解が人によって異なるもの」については、私の「解」だけではなく、いろいろな「解」の中から、子どもが「自分の解」を見つけていくものでもある、と思うのです。

それが「社会の中で暮らす」ということでもある、と。

(勿論・・・・「人を殺すな」「ものを盗むな」といった、古来よりの叡智を伝えたい、というのはありますけれど。)

あ、この話はじめると長くなりそうなので、この辺りにしておきます(笑)
アカリ |  2009.06.13(土) 03:45 |  URL |  【コメント編集】

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