2017年08月 / 07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2008.01.11 (Fri)

ネットでの意見表明に対する一考察

「議論」における齟齬。もともとはそういう話だった筈・・・・。
なのに、今、どうしてこじれているか?
それについての、一考察。

(どうして、私がこの件(Yahoo!ブログを中心とするごたごた)について発言するようになったか。詳細は、私の責任の所在を読んで欲しい。)

関連記事:
僕達の負けだ
・  →答えは風の中

  ↓
時効コメント欄 (拙記事)
  ↓
低脳は低脳らしく自分の殻に閉じこもれコメント欄

関連拙記事:「円満解決」の為の話し合い

【More・・・】

~~~~~~~
<1>そもそも、「議論」とは何か?というところから。
議論のしかた の中の3. 議論の精神より。

議論とは人の意見を聞いて理解する場である。


自分の正義を「押し付ける」場ではない。
自分の意見が正しいと「押し付ける」場ではない。
人の意見を聞いて、自分の意見を見つめなおし、よりよいものに近づける場である。
自分の意見を見つめなおすといった「自己批判」が出来ない人、自分の意見に固執してしまう人は、自分を成長させることは出来ないと思うし、ましてや他者・世界を変えることは出来ない。
(私は「結論を出す」という議論には苦手意識は感じていたが、それは「結論=絶対のもの」という思い込みがあった故であると、先日ブログで話していて気がついた・・・・というより、会話の相手に気づかせて頂いた。そう、「その場で選んだよりよいもの」を結論とするだけであって、もっといいものが出てきたら結論自体を見直せばいい、ただそれだけのことだったんだね。)

そもそも。
自分の持つものが「正しい」としてしまうことは危うい。それこそ「正しいに違いない」という思い込みの域を脱せないでいるだけだと思う。
それが「正しい」としてしまうと・・・・他の意見を受け入れられない、という狭量さに繋がるから。
勿論、自分の考えを持つこと自体は大事。
でも、常に「自分の考えは正しいのか?」と模索し、自分の意見に批判をしていく・・・・「自己批判」の姿勢なくして、成長はないと思うし、自分の意見をよりよいものに近づけることは出来ない。
そういう意味で、他者との会話は必要と考える。

「自己批判」について。
上に挙げたリンク の中の4. 発言の自由より。

自己批判の精神とは、すべての事について「もしかしたらこれは正しくないかもしれない」と問いかけ続けることです。
(中略)議論では何を言ってもいいのです。そういう意味で、議論では「不確かな発言」が許されています。正しくない事を言って誰かに間違いを指摘されたら「ああ、確かにその通りだ」と思って反省すればいいのです。
(中略)不確かな発言は損をしますが、してはいけない発言ではありません。議論ではしてはいけない発言というのはないのです。発言には常に正しくない危険がつきまといます。つまり、すべての発言は程度の違いこそあれ「不確かな発言」なのです。「自分は不確かな発言はしない」と言う人は、自分の発言が不確かかもしれないということに思いが至らないだけです。つまり思慮が浅いだけということです。



「発言責任」について。

   「発言の責任」について考えてみて下さい。あなたは発言をした以上、その発言がより良くなるように努めなければなりません。不明瞭な点はできる限り明瞭にして、間違っている点があったら直さなければなりません。それが「発言の責任を果たす」ということです。


私の意見は、ブログでの発言責任について に書いた。その一部を再掲する。
 『どんな「言説」「主張」であれ、私が発言した以上、私のものだ。
 私はネットの世界で何でも書く自由があると同時に、自分の発言に対して一定の責任というものが生じると考えている。
 私の考えている責任とは、以下の通り。
  ・齟齬を感じたら、言葉を重ねること。
  ・自分の言葉に対する異見・反論を聞くこと。
  ・その言葉(私の言葉やそれへの異見・反論)について考えてみること。
  ・言葉がおかしいと自分で感じたら、訂正すること。』


~~~~~~~~
<2>「議論」においては、何をしてもいいのか?という事、について。

私は、「否」と答える。
何故なら、議論とは『議論とは人の意見を聞いて理解する場である』から、各人がするべきは相手に自分の意見を「理解」させようと努力することであるから。

ネチケット千夜一夜 の中の第14夜 議論より。

もし、あなたがその人の意見に反論する場合に注意すべきことが2つあります。
1つは『意見に対して反論すること』です。その人本人を非難してはいけません。
もう1つは、あなたの反論が『相手を不快にしない』ということです。
あなたが誰かとケンカを始めた場合、本来の議論の流れには戻れなくなるかも。

自分の目的が『議題を解決させること』だと自覚していた場合は、議論の進行を妨げるような行為(ケンカ等)はしないはずです。

また、議論に参加する場合は冷静であることも大切です。


議論の場において、言葉の汚さというものは・・・・それだけで「議論の妨げ」となるのだ。
議論のしかた の中の4.8. 感情を害する発言について

「人の感情を害する発言」とは何でしょう?これには明確な定義ができません。ある人が「感情を害した」と言えば、どんな発言でも人の感情を害する発言になってしまいます。ある発言をとってきて事前に「これは人の感情を害するかどうか」を判断する事はできません。実際に言ってみて、それが実際に感情を害する人がいるかどうかで確かめるしか判別方法はないのです。だから人の感情を害する発言をしない事は不可能です。

とはいっても実際に暴言を吐く人も誹謗中傷を繰り返す人もいますし、それを黙って受け止められるほどの聖人ばかりではないのも事実です。しかしよく考えて下さい。それらの発言が本当に悪いのは人の感情を害する発言だからでしょうか。それ以前に、議論になっていない発言だからではないでしょうか。そういう人には、感情を害するという理由ではなく「ここは議論の場だから、人の意見を聞くつもりのない人は退場して下さい」と言うべきです。


要約すると。
「暴言・誹謗中傷」とは、「人の感情を害する発言」である以前に「議論になっていない発言」であるから、議論の場では行うべきではない、というもの。

此処の意見も理解してはいるし、その通りとも思う。
ただ、私は少し違う考え方ではある。
「暴言・誹謗中傷」は自分の意見が相手に受け入れられるためのハードルを高くしてしまいがちである。人間は感情の生き物でもあるのだから、「暴言・誹謗中傷」でちりばめられた意見から大事な「意見」部分を抽出する作業は容易ではなく・・・・議論の相手や第三者に自分の意見を聞き入れてもらい、議論を円滑なものにする為の「自助努力」として「表現に気を使う」のはしてもいいと思っているし、したほうがいいと思っている。
いくら自分が「正論と信じる」ものであっても、相手や第三者に聞き入れてもらえないものは単なる「自己満足」である。

すなわち。「議論」というものから見ても、「人間は感情的動物である」という点から見ても、「暴言・誹謗中傷」というものはあるべきものではないのだ。


~~~~~~~~
3.「議論」をしない、という選択肢について。

「議論しない」という選択肢もある。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ブログ より。

ブログ (Blog) とは、狭義にはウェブ上のウェブページのURLとともに覚え書きや論評などを加えログ(記録)しているウェブサイトの一種。「WebをLogする」という意味でWeblog(ウェブログ)と名付けられ、それが略されてBlog(ブログ)と呼ばれるようになった。
(中略)現在、より頻繁に用いられている広義には作者の個人的な体験や日記、特定のトピックに関する必ずしもウェブに限定されない話題などのような、時系列で比較的頻繁に記録される情報についてのウェブサイト全般を含めてブログと呼称する。


あくまで記録。だから、もし自分が「議論」を望まなければ、スルーする選択肢もありうる。
ただ、「ブログ」には通常コメント欄・トラバ欄というものがある。
これは、「ブログは他者が見るものである」ということを前提としている、ということ。
そして・・・・当たり前だけど、閲覧者全てがコメントを入れるというわけではない。大抵の人は読むだけでスルーしていく。
コメントするということは、無関心ではいられない人である、ということ。「議論」というものが『議論とは人の意見を聞いて理解する場である』であるから・・・・せっかく「あなたの意見をもっと知りたいです」と表明した人に対して不誠実な対応を取るのは、勿体無いと思う。

特に、ブログ管理者が注意しなければいけないことは。
コメントの意図が、アドバーサリー(対抗)なのかエネミー敵)なのか、それを判断する事。
アドバーサリーとエネミー より。

アドバーサリーに分類されるコメントであれば、こちらがその気になれば、議論する余地が十分にある。でも、エネミーに分類されるコメントにはそうした余地はない。だから、この両者の違いを見極めることが重要なのかもしれないなあと。アドバーサリーだったら普通に応対する、エネミーだったらスルーする、というのが無難なところだろうか。

ところが世の中には、その区別を付けられない人がいて、自分の意見に異論を唱える人がいると、ひとくくりにエネミーだと思ってしまう場合がある。そして、単なる事実の指摘に対してすら「誹謗中傷」とかいう類の言葉を安易に使ってしまう。


その言葉が「アドバーサリー」なのか「エネミー」なのかは、コメントでのやり取りで判断できる。そしてそれは、決して、ただ一言で判断できることではない。
だから、先ずはコメントの内容をきちんと読むこと。
会話に慣れていない、又は「わざと反感を買うようなコメントをして、その対応を見て管理人を判断する」等のコメント、そこに現れる不遜さに惑わされてはいけない。
それこそ・・・・「アドバーサリー」を「エネミー」としてしまう可能性もあるのだ。

<4>炎上しないための対応について
何故あのサイトが燃えたのか? の中の第4回 「炎上の見事な鎮火例」 より。

そもそもこのブログが炎上した一番の原因は、根拠をはっきりさせないまま、あいまいな問題を断言してしまったことにあるでしょう。世の中で話題になり、意見も分かれていることに関して、一方の立場で言い切ったわけですから、そこに反対派のコメントが殺到することは自然な流れです。(中略)
この事例でもっとも注目すべき点は、寄せられた意見を真正面から受け取って、きちんと対応したことでしょう。集まったコメントには、いわゆる「荒らし」的なものも多かったのですが、数多くのコメントの中からきちんとした批判を汲み取り、謝罪すべき点はきちんと謝り、言葉足らずだった部分には丁寧な説明をしています。(中略)コメントの中から真剣な意見を抽出していくことも、1つの重要なリテラシーといえます。


そう。
『誠実な対応がネットの自浄作用を生むといってもいい』のだ。
相手を排除しない。(コメント削除・コメント非承認など)
相手を罵倒・中傷しない。
相手の意見に耳を傾ける。
自分の意見に反論する人たちを「悪質行為者」として、排除するのは『ネットの自浄作用』の逆の行為であり、より騒ぎを大きくすることがあっても沈静化には結びつかない。


~~~~~~~
余談。
以前、私は彼らの見えないところで、毒持つ詩歌として正義という名の美酒 を唄った。
この唄自体は、とある方の行為を見ていての感想、なんだけど・・・・
この件に関わる人(それには、当然私も含む)に対する想いである事は、間違いない。
一部分のみ再掲する。
 『「正義」の名の下に行われる

  狭量な裁きに

  同意し、うねりを広げ

  いつしか同類を求める

  同類しか見えなくなる


  それが全てになるのに時間はかからない』

それは、一方の立場の人だけではない。
もう、いちいち名前は挙げないけれど・・・・この件に関わる方々(「当事者」だろうが「野次馬※」「ケン」というスタンスであれ、発言した方々)は「自分の考え」に拘泥する余り、他者の意見に耳を貸さないところがあった。
「自己批判」が出来ない。
「自分が正しい」と思っている。
「相手が折れるべきだ」と思っている。
そのまま相手を否定してしまうなら、「何かを変える」事などできない。
又、そのまま「議論」したところで、議論にはならない。
だからこそ私は「先ず話し合うべき場所が必要」と思った。
(まあ。急に「相反する立場の方々」を呼ぼうと思ったところは無理があったと思う。話しやすい方々同士が「同類を求める」ことなく話し合う、その流れでいろいろな方が話せるようになれば、素敵だなあと思う。そういう意味で、私は 時効 のコメント欄のstachyoseさんの提案に先ず『私でよかったら、是非、協力させて下さい。』と書いたのだ。当然、私と stachyoseさんとの間でも「見解の相違」がある筈で・・・・でも、「会話する事に意義がある」と思ったから。そういう意味で、私がネットに出れない間にstachyoseさんが『自分が協力を要請するにあたって何がよくなかったのか、冷静になってからしばらく考えてみます。』『出直してきます、ごめんなさい。』としたのって、凄く申し訳なかったなあと、残念に思っている。
まあ、棘 1で書いたように、『途中で何らかの措置を講ずる事が出来れば、「特定個人を排除するかのような」コメント欄にならずにすんだのではないか』という意味で、私のコーディネート力不足だと反省中、なんだけど。)

(※「野次馬」については、注釈が要る。私が「thiamato」を名乗っていた当時は「野次馬」を冠していた人は私を入れて二人。でも、自分が「野次馬」と名乗るかどうかは別として、この件で監視所BBSや、さららさんのブログや、私のブログや、自分のブログで発言した人たちは・・・・「当事者」以外は全て「野次馬」、という括りにしている。乱暴な括りであることは自覚しているんだけど、「第三者」という表現については、別に考え纏めたいので、あえて今回は使わない。)

『頭の固いところは双方同じ。』
私は以前こう評した。
『まるで合わせ鏡のよう』こうとも、評した。
それは今でも変わらない。
相手が変わることを、相手が折れることを望み、自分だけは自分のやり方を押し通そうとする。
相手がより頑なになるような、「北風」のやり方で1年半以上の歳月がたっている。
(「北風」のやり方:罵倒コメントとか、「嘘吐き」のような負のコメント・トラバ、そして「○○関連の方」という括りでの排除、愚弄嘲笑などなど・・・・)
「そのやり方は通用しない」ということはそろそろ感じているのではないか?
別のやり方を考慮してもいいのではないか、そう思う。
(論としては、相反する立場の方々へのコメント欄で提示したのと同じではあるのだけど・・・・それでも、あえて書く。ある一つのやり方が通用ない時、他のやり方で事態を解決しようと試みることがどうして「考えられない」のか、私は双方の主張を見ていてもよく分からなかったから。)

私は、騒ぎを見ていてこう思う。
『もう、仲間内だけで言葉を響かせるのはやめないか?』

それはすなわち、相手の話を聞いてみないか、ということ。

~~~~~~~
1月12日(土)7:47追記。
私は、11日23:30~、この記事を4箇所にトラバしました。
内、三箇所で受信されているのを確認しました。(一箇所、「承認後表示」の所は、承認して頂けないのか、それとも届かなかったのかは分かりませんが・・・・)
僕達の負けだ
低脳は低脳らしく自分の殻に閉じこもれ
今年も残すところあとわずか
『反日ブログ監視所』のお仲間サイト・『花より韓国』の閉鎖に関して
EDIT  |  23:31  |  ちょい真面目<ネット関連>  |  TB(3)  |  CM(6)  |  Top↑

Comment

♪管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
 |  2008.01.12(土) 10:30 |   |  【コメント編集】

2008.01.12(土) 10:30の内緒さん、お久しぶりです。
コメント、ありがとうございます。

又、お伺いさせてくださいね。
アカリ |  2008.01.12(土) 21:04 |  URL |  【コメント編集】

♪管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
 |  2008.01.12(土) 21:36 |   |  【コメント編集】

2008.01.12(土) 21:36 の内緒さん、おはようございます。
コメント、ありがとうございます。

そうですね。
読んでいてくださるとありがたい、そう思っています。
アカリ |  2008.01.13(日) 04:55 |  URL |  【コメント編集】

♪管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
 |  2008.01.13(日) 11:08 |   |  【コメント編集】

2008.01.13(日) 11:08の内緒さん、こんばんは。
コメント、ありがとうございます。

そうですか・・・・了解しました。

では、もう少し言葉を重ねさせていただきますね。

言葉の刃は、当事者は勿論、周囲まで痛みます。
「狂気」や「毒」は伝染しやすく、消すことは難しいものです。
そして・・・・私の言葉は、誰をも傷つける可能性がある、それは承知です。

決して、ご無理はなさいませんよう。
アカリ |  2008.01.13(日) 20:50 |  URL |  【コメント編集】

コメントを投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメントを表示
 

Trackback

この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック

ブログでの討論とは

先の「他山の石」というエントリーに対してご意見をいただきました。 本来ならコメン
2008/01/15(火) 14:13:31 | 瀬戸智子の枕草子

他山の石

これは備忘録です。 勝手に書いていますのであしからず。 さて、一連の水伝騒動もよ
2008/01/14(月) 17:31:13 | 瀬戸智子の枕草子

ブログって、繋がってるってことでしょ

「ブログで連帯は可能なのか?」ってのがdr.stoneflyさんの最新エントリーですが...。拝見しながら考えてしまいました。 連帯が特定の目的を...
2008/01/12(土) 16:39:03 | 愚樵空論
 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。